日米半導体戦争


半導体シニア協会

理事長
牧本 次生


日米摩擦の始まり

 日本と米国の間には半導体分野を巡り、1980年代から90年代にかけて激しい覇権争いが行われた。先行する米国のシェアを86年に日本が逆転、93年には米国が再逆転するといった形の競争は、まさに「竜虎相打つ」様相を呈しており、「日米半導体戦争」という表現が用いられることも稀ではなかった。
 その予兆は70年代後半、日本からDRAMの対米輸出が立ち上がり始めた頃にさかのぼる。高まる対日警戒心がきっかけとなり、77年に結成されたのがSIA(半導体工業会)である。SIAはロビー活動において、日本の「超LSIプロジェクト」を官民癒着の象徴として取り上げ、アンフェアな「日本株式会社」と名づけてこれを非難した。
 このような活動はマスコミでも取り上げられるところとなり、78年にはフォーチュン誌が「シリコンバレーにおける日本人スパイ」と題する記事を載せ、対日警戒心をあおった。80年代に入ると日本メーカーが次第に実力をつけ、逆転のときがやってくる。
 64K DRAMの世代で日本メーカーのシェアは70%に達して圧勝し、米国では一層危機感が高まる。フォーチュン誌では、この問題を81年3月と12月の二回にわたって取り上げた。その趣旨は、先端メモリで日本に負ければ、それは半導体での敗北のみに止まらず、米国の基幹産業であるコンピュータ分野も危なくなるとして警鐘を鳴らしたのである。
 83年になるとビジネス・ウイーク誌が「チップ戦争・日本の脅威」と題する11ページに及ぶ特集を組んで、日本半導体の脅威について詳細を報じた。両国の激しい半導体競争について、「戦争」という表現が用いられるようになり緊迫した状況となる。

日米半導体協定
 半導体市場は84年まで順調な成長を遂げたが、85年に入ると需給バランスの崩れから、一転して大不況に見舞われた。DRAMの価格は日を追って落ち込んだのである。そのような事態を背景にして、同年6月SIAが、米国・通商代表部に日本製半導体製品をダンピング違反で提訴した。また、時を同じくしてマイクロン社は商務省に日本の64KビットDRAMをダンピングで提訴した。日米半導体戦争のスタートだ。
 その後1年間に渡り厳しい政府間交渉が続けられ、日米半導体協定が結ばれた。協定の中に織り込まれた主要条項は@日本市場へのアクセス改善、Aダンピング防止の2点である。この協定は86年から10年間続いたが、この間日本においては、メモリ事業が完全に両国政府の監視下におかれ、経営の自由度は奪われた。また、米国では官民一体となってSEMATECHの設立を進め、半導体分野の競争力を取り戻すことに成功した。93年には日本のシェアを再逆転して世界トップとなり、今日に至っている。

7月33日の決着
 協定の締結から10年を経た96年はその見直しの年になる。この案件は日米両政府のトップの関心事でもあり、クリントン大統領と橋本首相の会談において「交渉のタイムリミットは7月31日」ということが決められ、期限内での決着が至上命題となっていた。 
 その最終交渉はバンクーバーにおいて7月29日に始まった。これは日米半導体戦争の総決算とも言うべき交渉であったのだ。米側民間交渉団の団長はTI社のパット・ウエーバ氏であり、日本側は筆者(当時、日立)が団長をつとめた。
 「7月31日」のタイムリミットは交渉団全員が強く意識していたのだが、双方の主張はなかなか合意に至らず、時は刻々と過ぎて行く。日本側は現在の協定を早く終結させ、新しい枠組みとして「世界半導体会議」の創設を主張。対する米側は、協定がなくなることによる事態の後戻りを懸念し、従来の仕組みを色濃く残したいと主張した。
 31日になっても、このような原則論が繰り返し蒸し返されるばかりで進展がなく、リミットの午前0時が近づく。交渉団には疲労の色が浮かんでくる。その時一人の知恵者が「ここで時計を止めましょう」と提案、双方ともこの一言に力を得てさらに詰めの交渉を続行。この後は睡魔を撥ね退けつつ、体力の限界に挑戦しながらの交渉だ。そして最終合意に達したのは8月2日の早朝だったのである。
 この交渉における最大の成果は「世界半導体会議」の設立が、ほぼわが国の提案に沿った形で合意されたことである。この会議はその後毎年開かれ、世界中の半導体関係者の相互理解を深める役割を果たしている。
 さて、7月末日までの決着を目指した交渉当事者にとって「8月」という月はありえない。したがってバンクーバ交渉は8月2日に代えて「7月33日の決着」となったのである。
 暦の上で見ることもないこの日付は、日米半導体戦争の激しさを雄弁に物語っているように思われてならない。
 この歴史を振り返って強く感じることは、首位を転落した後の米国の強烈な巻き返しである。超LSIプロジェクトの方式を「日本株式会社」と非難しながら、これが有効となれば、手のひらを返すような形でSEMATECHを設立。なりふりかまわぬ振る舞いには半導体を国家戦略として位置づける米国のすさまじい執念が感じられる。この当時、政府、産業界、大学、マスコミなど国全体で「米国の盛衰は半導体にあり」という認識が共有されていたのだと思われる。
 近年、日本の半導体業界は残念ながらその存在感が次第に薄れてきている。天然資源のないわが国にとって半導体はかけがえのない産業である。今一度「チャレンジャー」としてのマインドセットに切り替えて、捲土重来を期さねばならない。そのためには国の総力を挙げての取り組みが必要である。■

SEMI NEWS Vol.26 No.2 より転載)

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