第8章 決裂の時


蝉の輪会 会長
牧本 次生


ZTATマイコンについてのモ社との協議
 1983年に開発着手したZTATマイコンは85年には開発完了となって生産が立ち上がり、あわせて国内外での強力な拡販活動が始まった。歩留などの諸問題もクリアされて86年8月には24万個に達し、前例のないスピードで売り上げ増に貢献した。マイコン部門のみならず半導体全体の希望の星となって、大いにその将来が期待されたのであった。
しかし、この画期的な新製品を巡ってモ社との間に「ワインドダウン事件」とも呼ぶべき事態が発生し、両社の関係は決裂に至る。そのいきさつについて振り返ってみたい。

 前述のようにCMOS16ビットマイコン(63K)の問題が解決して、正式な市場導入がなされたのは1985年9月である。長かった「CMOS認知問題」が一件落着した直後からZTATマイコンについての協議が本格化していく。
 同月24日にモ社からオーエン・ウイリアムス氏を含む6名の技術者が日立を訪問し、午前10時から夕食に到るまで技術トランスファーに関する会議が持たれた。実務担当も含まれており、ZTATマイコンについての協力関係をこれからどのように進めていくかについての具体的な協議である。
 この会議の冒頭で私が歓迎の挨拶をしたのであるが、そのときのメモが見つかった。主たるメッセージは「ZTATマイコンを共にプロモーションして、Win−Winの関係を築きたい」という内容である。ZTATがいかに重要であるかを端的に表現するために、以前に紹介した次のフレーズで締めくくった。

“Someday, all micros will be made this way: ZTAT”

 意表をつくような表現ではあるが、マイコンのことを理解している技術者にとっては素直に受け入れてもらったのではないかと思う。その後、導入に当たっての具体的な方法が議論されたのであるが、日立としても、モ社と協調して立ち上げれば、単独の場合よりもZTATの普及が加速されるので、できるだけの支援を行うことを約束したのだ。
先方でもZTATの持つ高いポテンシャルを理解し、製品化に積極的に取り組むとの意思表示がなされ、会食の席はよい雰囲気の中で盛り上がったのであった。

 しかし、この雰囲気のような形には事態は進展しなかったのだ。その背景を説明するために、両者間の特許契約の状況に触れなければならない。この時期、ZTATマイコンについての協議と平行して、半導体特許の契約更改交渉が進められていた。通常の特許交渉の場合、両社が持つ半導体特許全体をまな板に乗せて評価した上で、対価のバランスを協議するのが普通である。しかし、モ社の場合、マイコンについてはその他のデバイスと違った枠組みで取り扱うことが決められていた。まず、マイコンをMFP(Motorola Family Product)と呼ぶモトローラ・アーキテクチャの製品とそうでないものに区分するモ社アーキテクチャのマイコンについては、プロセスやデバイス技術が異なっていても、MFPの中に入ることになる。たとえば、日立で独自に開発した4ビットマイコンなどはMFPに入らないが、6801、6301、63K(68HC000)、63701X(ZTAT)などはすべてMFPに入る。
また、MFPについてはモ社がセカンドソースするものと、しないものに区分する。セカンドソースする製品には特許のライセンスを与えるが、セカンドソースしない製品についてはライセンスを与えないというものである。
 セカンドソースについての条件交渉は特許交渉から切り離して、ビジネス交渉の一環として取り決めるという枠組みであった。上記の例でいえば、6301と63K(68HC000)については、すでにモ社がセカンドソースをすることが決まっていたが、ZTATのセカンドソースについてはその後のビジネス交渉にゆだねられることになっていたのである。そしてそのスタートが前述の東京における85年9月24日の会議だったのだ。

 この会議を皮切りにして、特許交渉とZTATマイコンの交渉が並行して続けられた。特許交渉では、相互の特許ポジションを評価して対価を算定し、妥協点を探る。ZTAT交渉ではどの製品をどのような条件でセカンドソースするかが主なアジェンダである。
明けて86年の1月12日から4日間にわたって特許交渉が行われた。場所はモ社半導体本部のあるフェニックス。ここでは1月とはいえ温暖な気候である。先方からはギルマン氏率いる特許部隊、当方からは本社から松田(海外部)、小川(知財部)の両氏、事業部からは私と初鹿野氏が対応した。ハードな交渉ではあったが、4日目の最終交渉において、ようやく妥協点に達したのであった。
 写真1は交渉前の作戦を錬るためのグリーン・ミーティングの写真。写真2は仮調印を終えた後での双方の交渉代表の写真である。


写真1 モ社との特許交渉メンバー(86年1月、フェニックス)
左から小川氏、松田氏、初鹿野氏、牧本

写真2 特許交渉の仮調印終了時の写真
左から松田氏、牧本、ギルマン氏、サーリ氏

ワインドダウン事件
 特許交渉も片付いて、残るはZTATマイコンのセカンドソースの案件のみである。
 特許交渉が決着した直後の2月21日付けで私は武蔵工場長に昇格したのであるが、この時期は半導体が大不況に突入しており、日米半導体摩擦が燃え盛っていた。今から思えば、最悪の時期での昇格であった。しかし、このような大不況の中にあっても日立のZTATマイコンは市場で好評であり、内外の営業部隊から増産要求が続いていたのである。
 モ社の実務部隊もZTATの評判を良く知っており、早期に製品化したいと望む声が強かった。例えば日本支社の社長をしておられたリック・ヤンツ氏である。当然のことではあるが、同氏はこの不況下においてもZTATマイコンが大健闘していることを良く承知しておられ、「ZTATマイコンはダイナマイト・デバイスだ!」と表現しておられた。この表現には私も大いに感嘆したのであるが、ZTATマイコンの持つ強烈な威力を端的に言い表している。この時期はいかにして作業量を確保するかが半導体経営者にとっての大きな課題だ。ZTATを早期に導入することによって、不況で作業量が減っている会津工場のラインを埋めることが出来ると考えていたのではないかと思われる。

 しかし、前年9月のZTATに関する東京会議から8ヶ月も経った86年5月にいたって、事態は急転する。モ社から突然の知らせがあり「ZTATマイコンをやるだけのリソースがなく、セカンドソースできない」とのことである。そして、6月に入るとさらに驚きの通知が入ってきた。即ち、「ZTATマイコンのセカンドソースは出来ないので、特許のライセンスを与えることは出来ない。従って、日立ではこの製品を”Wind Down”(ワインドダウン)することを要求する」といった趣旨のレターが届けられたのだ。
「ワインドダウン」とはあまり聞かない表現であるが、辞書を引いて調べてみると、「・・・を取っ手を回して降ろす」とある。平たく言えばZTATマイコンの店じまいをして欲しいとの要求であった。
 われわれにとってはあまりにも唐突なことであり、しかもZTATマイコンは最大の売れ筋になっていたので、大問題となった。昨年9月の東京会議以来、先方のスタンスは前向きであったので、今回あげている「リソースが足りない」という理由が額面どおりであれば、両社の協力によって打開策があるはずである。
 私はゴールドマン氏とフェイス・ツー・フェイスで話し合うことにした。フランクに話し合えば何らかの打開策が見つかる筈だ、との思いからオースチンに飛んだ。同氏とは6301のセカンドソース問題のとき、さらには63K認知問題のときと2度にわたって大きな問題を解決してきたので、今回もそのときと同じような期待を持っていたのである。会談を行ったのは、レターを受けてから間もない6月20日である。
 ゴールドマン氏との会談においては、相互のポジションを確認したうえで「どうすれば現状を打開できるか?」という点について文字通り「腹を割って」話し合ったのであった。私からはZTATは市場からの要求が極めて強く、両社で今一緒に立ち上げれば世界で圧倒的なポジションを築くことができるだろうことを強調。また、立ち上げのサポートについては思い切ったプランを提案した。ゴールドマン氏はその話をしっかりと受け止めていただき、この線でモ社のトップに提案することを約束してくれたのである。私は同氏の誠実な人柄や実行力を良く知っていたので、彼からトップへの提案が道を開くだろうと期待していた。

決裂の時
 それから3ヶ月の間、モ社からのレスポンスは来なかった。「便りのないのはよい便り」なのか、社内交渉が難航しているのか、いずれとも不明の状態である。モ社内ではゴールドマン氏からトップへの提案を巡って、内部でのいろいろなやりとりがあったのだと思われる。
 9月下旬になって渉外部隊からようやくレスポンスが入った。「モ社のトップはZTATマイコンについて日立との協力はできないとの判断だ。この状況を打開するには、これまでの実務レベルの交渉では不可能だ。トップ同士が直接話し合うしか道はない」との内容である。
 状況は極めて難しくなってきたが、トップ会談に望みを託す以外に道はない。日立からは畑捨三氏(当時専務、後副社長)にご出馬をお願いした。同氏は工場長の私から見れば3段階も上のポストであり、半導体およびディスプレイ事業を含む電子グループを統括する総帥である。
 トップ会談が行われたのは12月1日。先方からはミッチェル社長他半導体部門の幹部が出席。当方から畑専務に同行したのは、私と本社(海外部)の塚田実氏などである。
 ミッチェル社長からはわざわざ畑専務が出向いてくれたことに対して懇ろな挨拶があり、これまでの協力に対する謝辞が述べられた。畑専務からは返礼の挨拶と共に、協力関係の再構築について、トップ同士でざっくばらんに話し合いをしたい、といった趣旨の言葉が述べられた。続いて実質的な話し合いが始まるかと思われた矢先に、ミッチェル社長から「今日のトップ会談はツー・レイトであった」との発言があり、この少し前に東芝との包括的な技術提携の契約が合意されたとのことである。

これにて万事休す!

 モ社とのマイコン技術提携の関係は師走のトップ会談を以って全て終わった。会社対会社の関係はこの日を以って決裂状態になったのである。
 私の胸中にはむらむらと燃え上がる思いがあった。マイコンの独自アーキテクチャなしでは何もできない。たとえ厳しい道のりであっても、独自アーキテクチャのマイコンを一日も早く開発して、市場に投入しなければならない。

 師走のトップ会談を受けて、再び実務部隊の交渉になるが、そのテーマは「如何にしてワインドダウンを進めるか」といった、いわば終戦処理に向けての打合せである。
苦しくて暗いことの多かった1986年が暮れて、87年の年明け草々に、日立本社においてワインドダウンの進め方に関する最初のミーティングが持たれた。モ社からはギルマン氏、オーエン・ウイリアムス氏など。日立からは本社から松田、塚田の両氏、事業部から私と初鹿野氏が出席した。この時点におけるZTATマイコンの出荷先は日本(含むアジア)が60%、米国が24%、欧州が16%となっており、世界各地に渡って顧客が広がっていたので、そのワインドダウンは容易なことではなく、大変な問題を抱え込んだのである。
 当方の主張は、新規顧客への売り込みは行わないことにしても、既存の顧客についてはできるだけ迷惑がかからないような形にしなければならない、という点である。一方、モ社は既存顧客といえども新規システムへのデザインは許せない、と反論する。双方から甲論乙駁の議論が出た所で、この日の結論としては「この問題は双方で持ち帰って、再度協議をもち、2月末までに決着しよう」ということで宿題を持ち帰ることにしたのである。

 ところが、ここで私の一身上に予期しない出来事が起こった。2月21日付けで武蔵工場長の職を解かれ、高崎工場長に任命されたのである。86年下期の業績は大幅な赤字の見込みであったから、収益責任を持つ工場長として更迭され、左遷となったのである。
 この時期、日米半導体協定の問題、メモリの価格下落による大不況に加えてマイコンのワインドダウン問題を抱えたままの異動となり、痛恨の極みであった。
 特にZTATマイコンについては自ら先頭に立って、開発、量産、市場導入に向けてのプロモーションを行ってきた。その結果、多くの顧客から好評をいただき、さまざまな機種にデザイン・インを進めてもらっていたのだ。今回のワインンドダウンによって、そのような方々に路線転換を強いることとなり、ひたすら胸の中でお詫びを申し上げるしかなく、無念の涙を飲んだのであった。
 その後の実際のワインドダウン活動は事業部では初鹿野氏たちが中心となり、国内外の全営業部隊の協力を得ながら進められたのであるが、日立のマイコン事業にとっては大きな打撃であり、試練ともなったのであった。その悔恨の思いは今日でも消えることがない。

 一方でZTATマイコンのワインドダウンは我々に大きな教訓を残してくれた。
「マイコンの事業においてはアーキテクチャを自ら開発し、完全に自らのコントロール下に置かなければならない」ということである。日立のマイコン技術者全員が、この思いをますます強くして奮い立って行った。  以上   (2011年9月1日)

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