卓見異見

 

第五回

ネバー・ギブアップ!

半導体シニア協会

理事長
牧本 次生


 企業人に限らず、長い人生に波乱はつきものである。山あれば谷あり、順風を得て得意のときもあれば、挫折して失意の底に沈む事もある。
 私は三度の挫折を経験して辛酸をなめた。今になって振り返ってみると、挫折のときに蓄えられた「ばね」のエネルギーによって新たな境地が拓かれ、今日の自分があるように思われる。
 1959年に日立製作所に入ったが、当時は半導体産業の揺籃期であり、入社後10年で開発部長に昇格した。当時弱冠32歳であり、後にも先にも日立における最年少記録である。部長としてLSIの開発量産化の指揮を取り、大きな成果を挙げた。しかし、5年後にオイルショックの直撃を受けて赤字転落、私は部長解任となった。入社後初めての挫折であり、大きな衝撃を受けたが、半導体の将来に一縷の望みを託して、自らを励ました。
 米国に長期出張して将来の方向を見定め、少数の技術者たちとメモリ製品を中心とする事業を推進した。市場の拡大にも助けられ、技術開発とグローバルな販売戦略がうまくかみ合って、事業は急拡大し、主力製品となる。私は副工場長から工場長へと階段を上がって行った。
 ところが、85年から始まった半導体不況で工場は赤字転落となり、私は地方工場に左遷となる。年齢からしても、これが最後のポストになるものと思われた。しかし、ここでは落ち着いて考える時間ができ、半導体業界で「牧本ウエーブ」として知られているコンセプトはこのときに着想を得たものである。
 2年間の地方暮らしが終わったころ、社内で大きな組織変更が行われ、図らずも新設の設計開発センターの長に任命された。左遷時のばねからエネルギーが放出されるような感じで、開発部隊の舵を取り、新しい事業基盤が出来上がる。その成果によって92年に事業部長に昇格、事業の総指揮を取ることになる。
 半導体部門の業績は順調に伸張し、売上高は92年の5600億円から95年には9600億円となる。この年に事業部長のポストを後進にゆずり、私は業界活動の比重が高くなった。96年のバンクーバにおける日米半導体協定の終結交渉では日本側の団長となって重責を果たした。しかし、このあたりから半導体市況は急速に悪化し、98年まで3年間の大不況となり、赤字転落となる。半導体部門を管掌していた私は専務から平取へと二段階降格の処分を受けた。新聞にも異例の降格人事と書かれ、日立の史上に例を見ないものであり、まさに「止めの一発」であった。
 挫折の谷底にあったとき、半導体産業研究所から声がかかって、日本半導体産業の復活を提言するための委員会(SNCC)の委員長をつとめることになる。一年かけてまとめたのが「提言書 日本半導体の復活」である。日本半導体が「地すべり的な大敗」の状況にあることを指摘し、産官学の総力を挙げて取り組むことの必要性を強調した。
 このような活動を背景にして、ソニーから声がかかり、2000年秋に専務として迎えていただいた。ソニーでは半導体技術戦略の担当として充実の日々を送った。
 このところ、時折の講演会などで司会者から『ミスター半導体の牧本』と紹介されることがある。どなたからいただいた異名かはわからないが、三度の挫折を経ることがなければこのような名誉の称号をいただくことはなかったであろう。
 今になって思うに、挫折のときは天が与えた貴重なチャンスだったのではないか。そこで学んだことは信念を失わず、道を拓く努力を続けること。ネバー・ギブアップ!である。
 これは個人の人生だけにいえることではない。日本と米国の半導体産業の盛衰についても同じことが言えるように思う。半導体産業を興した栄光の歴史をもつ米国は80年代に日本に抜かれて後塵を拝した。その後、国の総力を挙げて強化策を進め、90年代になると見事に復権を果たして、日本との地位を逆転した。逆に日本の半導体は落ち込んで、往時の勢いが失われている。今は挫折のときにあるといえるだろう。
 しかし、日本にとって半導体はかけがえのない産業であり、強い意志を持ってその復権に取り組まなければならない。
 本欄の執筆の最終回にあたり、半導体に携わる皆様に『ミスター半導体』から次の一言を贈りたい。


ネバー・ギブアップ!           「卓見異見」おわり

(日刊工業新聞 2010年8月30日 掲載)

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