バック・ツー・ザ・フューチャ・半導体 記事アーカイブ

テクノビジョン代表 牧本次生 執筆

 

◆第 1回
 『半世紀前の決断  東大入学、「半導体をやろう!」と決断、卒論テーマに半導体を選ぶ』
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◆第2回
 『ゲルマニュームの時代 』 
  − 日立武蔵に配属された半導体一期生は「七人の侍」
      「キューポラのある街」で吉永小百合の就職先はトランジスタ工場だった!!  
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◆第3回
 『米国に学んだ時代』
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◆第4回
 『ICが発明された頃』
  −ICがなければPCも携帯電話も大きなビルのようになっていた!
         技術開発の鍵は、将来に対する「洞察力」と「想像力」
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◆第5回
 『アット驚く日立の人事 』
  − マンモス企業日立から32歳の部長誕生!
      「工場中心」から「事業部中心」の組織へ
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■第6回
 『電卓が拓いたLSI時代』
  −「ジョニ黒プロジェクト」で米国メーカーに勝利
           カシオミニ大ヒット、日立LSIシェア65%
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■第7回
 『オイルショックのインパクト』
  − 電卓戦争でカスタムLSIの時代にかげり
      メモリ・マイコンなど新興勢力米国に台頭
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■第8回
 『メモリ・マイコン時代の幕開け』
  − インテルが1k ビットDRAM、4 ビットMPUを市場導入
                   日立、メモリ・マイコン分野強化
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■第9回
 『インテルの高速メモリに挑戦』
   −日立 中央研究所「二重ウエルCMOS」発明
      CMOSを半導体の主流の座へ
        16kビットSRAMで世界トップシェア
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■第10回
 『64k DRAMで世界制覇』
  −「カリブー・プロジェクト」で飛躍
     日本勢圧勝・日米半導体摩擦の前夜
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■第11回
 『メモリ大躍進 〜重点三大新製品が牽引〜』
   −IDMで’82年に招待講演
      週刊誌で社長候補に挙がる
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■第12回
 『半導体大不況 〜日米半導体戦争火を噴く〜』
  −「アンダーソンの爆弾」
     インテル社、DRAMから撤退
          86年9月 日米半導体協定締結
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■第13回
 『逆境での着想 〜牧本ウェーブ〜』
  −「標準化」と「カスタム化」のサイクル
       その背景に「半導体振り子」モデル
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■第14回
 『マイコン裁判の経緯』
 −セカンド・ソース契約の破綻
     SHマイコンとF−ZTATで事業再構築
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■第15回
 『日立半導体の黄金期』
  −SGO、MGOで売上高1兆円に迫る
     SHマイコン、デジタル・コンシューマ分野を拓く
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■第16回
 『日米半導体協定の終結』
   −7月33日の決着
      世界半導体会議への道
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■第17回
 『二段階降格事件〜専務から平取へ〜』
  −地獄のような大不況
         日経紙上で日本半導体復活への提言
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■第18回
 『SNCC提言書〜日本半導体産業の復活〜』
  −「あすか」「MIRAI」プロジェクト立ち上がる
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■第19回
 『日立からソニーへ』
  −専務として半導体技術戦略担当
       2004年3月 ベルウェザー賞受賞
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■第20回
 『日本半導体の盛衰』
 −「日本圧勝から一人負け」へ導いた7つの要因
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■第21回 最終章
 『がんばれ!ニッポン半導体』
 − 環境変化への迅速対応こそ最大の事業戦略
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