第7章 ZTATマイコンの開発と市場導入


蝉の輪会 会長
牧本 次生


ZTATマイコンとは?
 半導体の技術革新を促進する大きな要因の一つは旧技術と新技術との間の絶え間ない相克である。旧技術の製品を主としている企業はなるべくその技術の延命を図ろうとするが、新技術の製品を主とする企業は、失うものが何もないことから、大胆な戦略で旧技術に挑戦する。その勢いが激しいとき、それは“Disruptive Technology”(破壊的技術)となって、旧世代技術を置き換えることになる。
 1980年代の初頭に導入された高速CMOS技術はまさに“Disruptive Technology”と呼ぶにふさわしい革新技術であった。それまでのNMOS技術に替わって主流の位置を勝ち取るに到ったのである。
 このような新旧技術の交代を背景にして、日立とモトローラ社の間において「CMOS路線問題」を巡る対立が起こったのであるが、その経緯については前項で述べたところである。
 マイコンの分野において、日立が先導したもう一つのDisruptive TechnologyがZTATマイコンである。その導入を巡って再びモ社との間に問題が発生して対立を生み、最後には決定的な亀裂にいたる。

 ZTAT(ジ―タット)は“Zero Turn Around Time”の略称であり、TATがゼロであることを意味するネーミングとして私が名づけたものである。通常のマイコンにおいてはプログラム・メモリの書き換えはマスクROMによって行われるが、着工から完成までの期間(TATと呼ばれる)は量産ベースでは数週間から一月に及ぶ。これをなるべく短縮することは常に求められる所であり、“Q-TAT”(キュータット)が当時のキーワードになっていた。Qは“Quick”の意味である。Q-TATの究極の概念としてZTATを位置づけたのであった。
 余談になるが、私がQ-TATという言葉を初めて聞いたのは80年の7月。IBM社のEast Fishkil工場を見学したときである。この工場は半導体の研究開発と量産の拠点であり、主として社内向けの製品が作られていた。その中に、半導体のTATを極端に短縮するための試作ラインが構築されており、「Q-TATライン」と名づけられていた。今日の枚葉式ウエーハ処理のコンセプトに近く、着工から完成までの期間をできるだけ「物理工完」に近づけるというのがそのプロジェクトの目標だとのこと。このときの強い印象が背景にあり、日ごろから社内でもこの言葉を使ってスピード意識の徹底を図っていたのである。

 さて、ZTATマイコンはROMの部分に、EPROMのメモリー・セルを使い、コストを下げるために、プラスチック・パッケージに封入したものである。従ってこの方式では1回の書きこみしかできないので、OTP (One Time Programmable)ROMと呼ばれる。
 ZTATマイコンは既存の技術を組み合わせたものであり、それ自体に技術的なブレイクスルーや新鮮さはないが、時間軸の短縮を狙った、いわば「コロンブスの卵」のような革新的コンセプトであった。

ICBMから始まったプロジェクト
 このZTATの製品化のきっかけになったのは、私が81年に(む)副工場長に就任してから間も無く飛来したICBMである。ICBMとは半導体のユーザーで何か大きな問題が起こったときに、通常の営業経由の情報ルートを通さずに、幹部から幹部へと直接の電話が飛ぶことをいう。最初のICBMは社内VTR工場の幹部からであった。
 そのときの電話の内容は、VTRの制御用マイコンのプログラムにバグが見つかり、大至急作り直さなければならず、緊急事態だとのことである。たった1個のマイコンで、はるかに高価なVTRが出荷できないとなれば大変なことになる。
 私は早速関連部門の責任者を集めて、「最短のQ-TATでやるにはどうするか?」について打ち合わせる。これ以上は無理、というところまでつめた上で、ICBMへの返事をするのだが、もちろん完全な満足は得られない。しかし、先方でもこれがベストということはわかるので、最後には渋々ながら了解してもらうことになる。
ところが、しばらくして、今度は別のところからまたICBMの飛来である。そのたびに、緊急会議を開き、最短のQ-TATをはじき出して先方へ回答する・・・。このようなことが一度ならず繰り返されたのである。
 横道にそれるが、この時期、Q-TATの課題に真正面から取り組んでいた一人の男のことが思い出される。当時、開発管理課長をしていた山脇裕君(1964年入社、67年日工専卒)の事だ。同君の通常の任務は開発品の進行を管理し、約束納期に遅れないように隘路打開の対策を講じることだ。同君は開発業務の各工程の人々と深いつながりを持っており、夫々の状況をしっかりと把握していた。そして部下からの人望が厚く、上司からの信頼を得て、開発部隊の潤滑油の役割を果たしていた。私はICBMが飛んでくるたびに、真っ先に同君を呼び、その中心になって対応策を練ってもらう。私からの命令で、各部署に無理な日程を押し付けるよりも、山脇君からの提案の形できめた方がはるかにスムーズにことが進むのだ。
 人心をつかむ才能は人並みはずれており、同じ新潟県出身の田中角栄の若いころのイメージと重なるように感じたこともある。しかしながら、いかなる天の定めか、私が高崎工場在勤中の88年に突如として世を去ったのである。日立が画期的な新製品で世界のトップを目指していたときに、火の玉のような情熱で仕事に取り組み、燃え尽きていったのであった。享年42歳、悔やんでも悔やみきれない若さであった。写真1は山脇君とともに、鹿児島県出身の若島津関(当時関脇、後大関)の宴席に招かれたときのものである。


写真1 在りし日の山脇裕君(右端)。1982年5月。
中央は若島津関(当時関脇、後大関)、左端牧本

 さて、このようなことが何回か続くと、Q-TATはいくらがんばってもQ-TATでしかなく、自ずと限界がある、との思いが募る。“フィールド・プログラム”の形にすれば、抜本的な解決につながることから、OTP−ROMの方式に着目したのである。そして、この方式を日立のマイコンのブランドとして確立すべく、マーケティング部隊ではZTATという名前を商標登録することが進められた。製品ができる前の84年4月には登録申請がなされ、86年10月には登録がなされた。

世界初のZTATマイコン
 ZTATマイコンの開発に着手したのは1983年。マイコン設計部(安田元部長、木原利昌主任技師、佐藤恒夫、松原清などの各氏)がプロジェクトの中心となって、プロセス技術開発部、試作部、製造部、検査部などの精鋭が参画した。最重要プロジェクトとして、突貫工事の形で進められ、あらゆる工程が優先された。そして、ファーストカットの目標は年末である。しかし、ZTATマイコンの難易度は予想以上に高く、ファーストカットではうまく動作するものができなかった。その後、不良原因の解析が進められ、完全動作品が出てくるまで更に半年を要したのである。84年6月に最終版のロットが出てきて、プローブテストの歩留は42%。これはいける!という感触が得られたのであった。
 鋭意、WS(ワーキング・サンプル)の積み上げを進め、8月末には1000個のサンプルが積みあがった。
WSに続いてのステップは信頼度試験を含むES(エンジニアリング・サンプル)認定である。この年の10月末に完了の予定であったが予期せざる問題が発生して難航した。特に大きな問題は「書き込み歩留」が低く、「データ保持特性」が不十分というものである。製品の性格上、完成品の段階で書いたり、消したりすることは出来ないので、あらゆるスクリーニングをプローブテストの段階で済ませなければならない。このため膨大な数の試料について、各種の組み合わせテストが行われ、貴重なノーハウが集積された。このような経緯を経て12月末には晴れてES認定が完了、これからいよいよ拡販と増産に向けての活動が加速されていく。図1は世界初のZTATマイコンとなった63701Xのチップ写真である。当時では最先端の2μCMOS技術が使われていた。


図1世界初のZTATマイコン(63701X)のチップ写真(拡大可能)
   2μCMOS技術を使い、チップサイズは5.9×7.5 mm□
   出典:T. Makimoto, “Products and Technologies 1986”

ZTATトリオの新聞発表
 ZTATマイコンの最初の大手ユーザーは社内の小田原工場である。同工場では磁気ディスクなどのメモリ製品を手がけていたが、仕向け先別の仕様の小修正にZTATマイコンが最適だったのである。βサイト・カスタマーとしての役割を買って出ていただいたので、最優先でサンプルを提供した。
 明けて85年1月末には、ZTAT拡販の第一弾として、北米キャラバンが出発し、最大市場の北米におけるマーケティング活動が始まった。
この年の3月になると、並行して開発が進められていた63705Vと63701VもWSが完成し、夫々100個以上のサンプルが積みあがった。ZTATのトリオが勢ぞろいしたのである。
 ZTATマイコンの新聞発表が行われたのは5月16日である。3製品そろい踏みでの発表であり、基本コンセプトと技術内容の説明が行われた。新聞発表が終わるとZTATの名は国内、国外に着実に広がり、営業部隊の関心も強くなっていった。
 新聞発表の準備と並行して、HALのマイコン担当のサーブ・サッカー氏から提案があり、市場導入促進のための「WINプロジェクト」を発足させることにした。WINは言うまでもなく「Design Win」のことである。4月に6名の専任部隊の人選がなされ、ZTATマイコンについての特訓が行われた。彼らが特訓を終えて北米に出発したのは、新聞発表の後の5月下旬であり、4ヶ月間の長期出張であった。
更に市場導入の促進を強化するために、8月には国内版WINプロジェクトがスタートし、10月には北米の第2次WINプロジェクト・メンバーとして7名が長期出張した。
 国内外の営業活動が活発化するとともに、注文の数も急激に増えていった。このような画期的な新製品の立ち上げの過程で、もっとも難しいのは需要と生産量の予測である。両方ともに不確定要因があるため、ときに思わぬ齟齬をきたすことがある。
86年の6月から7月にかけての納期問題はまさにそのような状況で発生した。需要は予想をはるかに上回ったのに対し、生産面は歩留の低迷で計画を下回ったのだ。顧客からは「ZTATと呼びながら、モノが入って来ないのでは、ZTATと呼べないではないか!」とお叱りを受けた。プロセス・デバイス関連の技術者が総動員で不良解析が進められた結果、ついに不良の主犯を捕らえることができた。歩留のばらつきの原因はフローティング・ゲート部のエッチング形状の制御にあることが突き止められたのである。
 8月生産に対しては全てその対策がなされたため、歩留は順調に改善し、ZTATマイコン全体の生産は24万個(売上げでは約5億円)に達した。このように急速な売上げ増はマイコン新製品の立ち上がりとしては、過去に例を見ないスピードであり、大型新製品としての期待が寄せられたのである。

希望の星
 この勢いが示すように、ZTATはまさにDisruptive Technologyと呼ぶにふさわしい新技術である。主として既存技術を組み合わせ、信頼性や歩留改善についての多くのノーハウを積み上げて完成したものであるが、それゆえに当時は世界のマイコン・メーカーの中で圧倒的な独走態勢となったのである。
 図2は私が武蔵工場長時代に使用した、顧客向けの説明資料(Products and Technologies 1986)の中の1枚であるが、日立のZTAT製品とインテルの対抗製品(8751)とが比較されている。日立品はCMOS、インテル品はNMOSである。インテル品に比べてスピードは同等以上であり、消費電力は動作時で15分の1、スタンバイ時で10分の1程度である。パッケージは日立品がプラスチック(ZTAT)であるのに対し、インテル品はCERDIP(セラミック)である。この比較表から、両者の格段の違いを読み取ることが出来る。


図2 ZTATマイコン製品の一覧表(拡大可能)
右端はNMOSベースのインテル製品(8751)。
なお63701Yと63705Zはモ社との関係(後述)で 製品化されなかった。
出典:T. Makimoto, “Products and Technologies 1986”

 ここで、ZTATの将来性を表現するために、私が顧客向けプレゼンや講演会において結びの言葉として使ったフレーズを紹介したい。

“Someday, all micros will be made this way: ZTAT”
(将来、全てのマイコンはZTATになるだろう)

 当時の常識ではマイコンの主流はマスクROMベースであり、EPROMオンチップはデバッグやプロトタイプ用に限定されていた。従って、上記のフレーズは逆転の発想として、大きなインパクトとなって伝わった。
 実はこの表現は私のオリジナルではない。以前に米国内を飛行機で移動中に、フライト・マガジンを読んでいたとき、偶然開いたページにセイコーの電子時計(Quartz Watch)のコマーシャルがあり、次のような一文を見つけたのである。

“Someday, all watches will be made this way: Quartz”

 このフレーズをマイコン版として修正し、大いに活用させてもらったのであった。時計についてもマイコンについても、当時としては意表をつくような表現であったが、今日の状況を見る限り、きわめて正鵠を得ていたといえよう。
 ZTATマイコンは「フィールド・プログラマブル・デバイス」の先陣であるが、この製品が急速に受け入れられたという事実は、フィールドにおけるプログラマビリティーがユーザーにとって如何に重要なものであるかを如実に物語っている。後日、牧本ウエーブの97年以降の「標準化指向サイクル」を「フィールド・プログラマビリティー」の時代と表現したが、その背景にはこのときの強烈な経験が生かされている。

  さて、85年の後半から日立半導体の大黒柱であったメモリ製品は市況悪化で価格は急激に落ち込み、売上げは予算を大幅に下回る状況になっていた。それに対し、マイコンの売上げはZTATマイコンを中心に好調に推移しており、86年10月のマイコン部門は47億円の新記録を達成した。
 この年は日米半導体協定が結ばれた年である。メモリの事業は日米両国政府の監視下に置かれて、その自由度は完全に失われたのであった。メモリに替わってマイコンが日立半導体の中心となって事業を牽引する時代がやってきたのである。中でもZTATマイコンは「希望の星」となって多くの期待を集めながら生産が立ち上がり、市場に浸透して行った。 (2011年8月30日)

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