第14章 思い出のお客様 (最終章)


蝉の輪会 会長
牧本 次生


 どんなに優れた性能のマイコンが開発されたとしても、お客様に使っていただいて、それを使った製品が市場で成功しなければ意味がない。処理能力が高い、消費電力が小さい、多くの機能を搭載している・・・といったことは必要条件ではあるが、全てではない。デバイスとして優れた性能が生かされるかどうかは、よいお客様にめぐり合えるかどうかにかかっている。お客様の製品が成功して初めてわれわれのマイコンが成功したといえるのだ。幸いにしてマイコン事業の推進中に、国内海外を含めて多くのお客様とのよいめぐり合いの機会があった。
 しかし、私が訪問した会社の数やお会いした方々の数は大変に多く、とても全ての事を詳細な記憶にとどめておくことは不可能である。「思い出すままに」といった感じになるが、お世話になり、ご支援をいただいたお客様のことについて触れることにしたい。
国内外を問わず、五十音順に下記のお客様の事に触れさせていただく。
エイサー(Acer, 台湾)、オムロン、カシオ、キャノン、シャープ、セイコーエプソン、セガ・エンタプライゼス、ソニー、デルコ(Delco:米)、ノキア(Nokia:フィンランド)、ヤマハ、リコー。
 さて、社名を並べてみて気がついたことであるが、国内企業の社名は全てカタカナである。もちろん偶然的な要素もあるが、やはりハイテクの先端に位置する国内の会社はカタカナが多いからであろうか。

エイサー(Acer, 台湾)
 同社は台湾におけるベンチャー企業成功の模範事例であり、「Taiwanese Dream」ともいえるほどに短期間で飛躍的な躍進を遂げた。
 1976年に電子計算機エンジニアだったスタン・シーと彼の妻キャロリン・イーを中心として11名の規模で会社を設立、マイクロコンピュータを業務の中心としてスタートした。81年にマイクロ・プロフェッサーと称するコンピュータ学習機を自社ブランドで発売し、これがAcerの最初のコンピュータとなる。
 Windows CEがSH-3に搭載された96年11月頃から、同社会長兼CEOのスタン・シー氏とは頻繁なコンタクトを持つようになり、D-in活動が進められた。97年4月に訪問したときに、同社のHPCにSH-3の採用を決めたということが告げられた。同氏にはSHマイコンを大変気に入っていただき、これから開発されるHPC以外の家庭用電子機器(ホーム・アプライアンス)にも、SHマイコンを使っていくと表明していただいた。同社の成長とともにSHマイコンの売上も伸びて、台湾における大口重要顧客になったのである。
 同氏はハイテク分野における半導体技術革新のインパクトを強く意識しておられたので、ごく自然に意気投合するようになった。そして同社の技術陣に対して半導体全般についてのセミナーを開いてほしいとの要望をいただいたのである。
 日立では3ヶ月の間に万全の準備を整え、97年7月2日に「Hitachi Seminar for Acer」の開催にこぎつけたのであった。私がキーノートを行ったのであるが、日立製品のコマーシャルにとどまることのないように留意しつつ、世界における半導体の動向についてスピーチを行った。図1はAcer側ホストのスタン・シー会長の写真であり、図2は出席者の全体写真である。なお、翌日には両社のセミナー参加者による懇親ゴルフ・コンペが行われた。


図1 Acer会長のスタン・シー氏(97年7月)

図2 Acerにおける日立セミナー(97年7月2日)
(中央がスタン・シー会長、その右が牧本) 

オムロン
 同社が立石電機と呼ばれていた頃の70年代、電卓用LSIの共同開発をして以来、日立半導体の重要顧客となっている。
当時の熾烈な電卓戦争の最中に、数機種の開発プロジェクトに参加させていただいたのであるが、その中で忘れがたいのは、シリコン・ゲートプロセスを使ったLSIの開発である。同社は他社との差別化を図るために、「高速かつローパワー」の電卓を目指していた。当時の主流プロセスはアルミ・ゲートプロセスであり、電極にアルミニュームを使う方式であった。一方日立ではシリコン・ゲートプロセスを開発中であったので、その概要を説明したところ、「ぜひそのプロセス技術を使いたい」という事になったのだ。技術的には「生煮え」のところもあり、量産の立ち上げに不安もあったのであるが、「思い切って飛び込んでみよう」という感じで、その案件を引き受けたのであった。ところが案の定、試作品は何とか作れたのであるが、量産の立ち上げが難渋し、次から次へと不良品の山を築いたのである。
 その対策のために、特別体制が敷かれた。対策ロットは物理工完に近いスピードで流れ、次々とフィードバックがなされた。ベストを尽くしたとは言え、当初の約束に比べて数ヶ月の遅れとなり、多大のご迷惑をかける結果になったのである。しかし、このときの経験が次の世代のメモリやマイコンの量産立ち上げに大いに貢献したことも確かである。内心忸怩たる物があるとはいえ、感謝の念に耐えないところである。
 時は下って、98年3月に立石義男社長を訪問してマイコンの動向についての説明を行った。同氏はマイコンが今後の同社のビジネスに重要な役割を果たすことになることを認識しておられ、「ぜひ幹部向けにマイコン・セミナーを開いてほしい」との要望をいただいた。私も「喜んでその機会を作りましょう」と約束したのであったが、その約束が果たされることはなかった。この後間も無く、私は半導体の業績不振によって二段階降格の処分となったからである。振り返ってみれば立石社長との会談が日立半導体のトップとしてマイコン顧客訪問を行なった最後であり、それ以後に顧客訪問を行なうことは絶えてなくなったのである。

カシオ計算機
 カシオの創業は終戦後間もない1946年、三鷹市に設立された樫尾製作所にさかのぼる。その後1957年に小型の電気計算機を開発し、これを契機として樫尾忠雄・俊雄・和雄・幸雄の樫尾四兄弟によってカシオ計算機が設立される。四兄弟は結束して事業に当たり、半導体の技術革新をたくみに取り込むことで大きな成功を納めつつ今日に到っている。
同社の技術センターが羽村にあり、小平市にある日立の武蔵工場とは地理的に近い関係で、電卓用LSIの時代から深い付き合いが始まった。電卓用、時計用、楽器用LSIなどで数多くの共同開発を行ったが、もっとも大きなインパクトがあったのは71年に発売の6桁電卓、カシオミニである。日立製のワンチップLSIが使われた斬新な設計であり、テレビでは「答え一発! カシオミニ」のコマーシャルで大ヒット商品となった。この商品の成功によって日立のLSIのシェアは大きく伸張し、国内ではピーク値で65%に達した。
 樫尾和雄社長、樫尾幸雄副社長、香西専務、前野専務、志村則彰専務、羽方将之常務など幹部クラスとは定期・非定期の会合や懇親の機会があり、マイコンの時代になるとますますその関係は強くなっていった。
 特筆すべきは世界初のデジカメ(QV-10)にSH-1がD-inされ、新しいデジカメ時代の先駆となったことである。95年の発売であるが、当時はWindows 95が導入された年であり、パソコンの普及が急速に広がっていた。QV-10はパソコンへの簡易なインプット機器として、予期しない大ヒットとなったのである。
 さらにWindows CEのSHマイコンへの搭載に当たってはカシオが大きな役割を果たした。マイクロソフトのコンシューマ向けOSの開発にあたって、カシオは早くからMSとつながりを持っており、そのOSを搭載するマイコンとしてSHマイコンを推奨してくれたのである。そのような経緯もあって96年11月のコムデックスにおいて、同社から発表されたHPC(ハンドヘルドPC)のカシオペアにはSH-3が採用されていたのである。


図3 1996年に発売されたHPCカシオペア
(Windows CEを搭載、CPUはSH-3)

 樫尾兄弟は揃ってゴルフの愛好家であり、上手であったことから、カシオの社内ではゴルフが大変盛んである。日立の半導体グループとも定期・不定期のゴルフの機会が多く持たれた。図4は97年5月に行われた懇親ゴルフのときの写真である。


図4 カシオとのゴルフ・コンペ(97年5月)
前列右から3人目が樫尾和雄社長、左へ樫尾幸雄副社長、
高嶋正明氏、野宮紘靖氏、安井徳政氏。
社長から右へ牧本、前野専務

キヤノン
 同社の前身は1933年に創立された精密工学研究所である。同年に発売された精密小型カメラを観音菩薩の慈悲にあやかりたいとの気持ちからKWANON(カンノン)と命名したが、35年に世界に通用するブランドとしてキヤノンに変更した。
 47年に称号をキヤノンカメラ(株)とし、69年にキヤノン(株)として現在に至る。
カメラ部門からのスタートではあったが、次第に多様化が進み、プリンタ、コピー機、ファックスなどの事務機部門、半導体露光装置などの産業分野、医療分野などを広くカバーしている。
 同社は以前から日立半導体の大口顧客であったが、H8マイコンの市場導入の直後に同社のカメラに採用していただいた。H8にとってはこれが始めての大型D-inであったのだが、この分野はモトローラ社の牙城でもあり、正面からぶつかるような形になったのだ。そして、これがマイコン裁判のきっかけとなる。その経緯についてはすでに第9章でのべたところであるが、モ社が日立のH8を特許抵触ということで告訴し、裁判沙汰に発展したのである。
 裁判が決着した後、同社とはますます深い交流が進められ、H8、F-ZTATやSHマイコンのみならず半導体全体の大口顧客となったのである。
 トップの御手洗肇社長(第5代社長、故人)、田中宏副社長(後に副会長)をはじめ、齋藤敬常務、酒巻久常務(現在、キャノン電子社長)など幹部とは定期・非定期の会合やゴルフなどのイベントを通じて友好関係が築かれていった。
 特に97年2月には同社がスポンサーを務めていたPGAツアーのハワイアン・オープンにご招待をいただき、他社の幹部とも顔を合わせ、おおいに懇親を深めることが出来たのであった。ソニーの出井伸之社長、NECの金子尚志社長、三菱電機の平林副社長、沖電気の東副社長などが出席しておられ、日立からの出席は松岡副社長と私である。このイベントはキヤノンにとっても一大プロジェクトであり、田中宏副社長が専任で事にあたり、大いに盛り上がったのであった。


図5 キヤノンがスポンサーのPGAツアー、ハワイアン・オープンの折の懇親ゴルフ。 前列左から田中宏氏(白シャツ、キヤノン)、
保坂雄氏(旭化成)、牧本、出井伸之氏(ソニー)

シャープ
 同社とのおつきあいも古く、MOS製品では70年代の電卓用LSIのときにさかのぼる。
 シャープは世界初の電卓(トランジスタ式)を1964年に市場導入すると、毎年のように半導体の新しいデバイスを使った新機種を世に送り出した。世界初のLSI電卓を製品化したのは69年であるが、このときには米国のロックウエル社のLSIが使われていた。70年になると、日立でもLSIのカスタム設計を引き受ける体制が出来上がり、シャープからも注文がいただけるようになる。当時は浅田篤氏(後に副社長)を中心に鷲塚諫、国包、橋本などの若手各氏が大いに活躍、日立LSIの大口顧客となっていたのである。
 90年代に入り、SHマイコンが開発されてから、浅田氏とは再び強いつながりが出来た。93年には同社のPDA(パーソナル・デジタル・アシスタント)ZaurusにSH-3を推奨し、D-inをしていただいた。また、96年にマイクロソフトから新OSのWindows CEが発表されるとSHマイコンへの関心はますます高くなった。シャープでもHPC開発の計画があり、97年4月にはSH-3、SH-4についての詳細を浅田氏に説明してD-inに結び付けていただいたのである。

セイコーエプソン
 同社の歴史は古く、1942年、第二精工舎の関連会社として設立された(有)大和工業にさかのぼる。59年に独立して諏訪精工舎となる。61年に子会社として信州精機を設立、82年に信州精機がエプソンと改称する。さらに85年に諏訪精工舎とエプソンとが合併し、社名をセイコーエプソン(株)と改めて今日に到っている。
 同社はプリンタ、パソコン、時計、カメラ用機器、液晶プロジェクタなどの多岐にわたる精密電子機器を作っており、以前から日立半導体製品を愛用いただいていた。マイコンの時代になって、68系/63系マイコン、H8マイコンやSHマイコンの製品化とともにその縁はますます深くなった。
 すでに述べたところではあるが、同社との最初のつながりは高速CMOSマイコンの第一弾、6301Vを使ったハンドヘルド・コンピュータHC-20の大ヒットである。このプロジェクトのリーダーは私の高校時代の後輩、中村紘一取締役であったが、日立のCMOS路線に早くから共感していた。マイコンのみならず、SRAMやマスクROMなども含めたオールCMOSマイコンのシステムとして、世界に先駆けるポータブル・コンピュータの製品化をなしとげたのであった。そして、HC-20の大ヒットは日立のCMOSマイコンが飛躍的な成長を遂げるきっかけともなったのである。
 このとき以来、同社は日立のマイコンにとって重要なお客さまとなっている。SHマイコンについても大口顧客になっていただいたが、その採用については安川英昭社長自らの英断に負うところが大であった。95年11月の同氏との会談において、どのマイコンを採用するかは極めて大事な経営判断であり、ベンダーのポリシーを自らしっかり確認してきめるということを明言しておられた。
 その後しばらくして、SHマイコンをライセンス導入したいとの意向がのべられ、双方で協議を重ねた上で、97年9月の同氏との会談において最終的な決着となったのであった。同社とは定期・非定期のミーティングや懇親ゴルフなどのイベントがあり、日立半導体の重要顧客として良好な関係が続けられた。図6は97年9月に行われた懇親ゴルフの写真である。


図6 セイコーエプソンと日立の懇親ゴルフ(97年9月)
   (前列左端が小平道彦氏、その右3人目が安川英昭社長、
その右が牧本)

セガ・エンタプライゼス
 セガは1980年代から家庭用ゲーム機の事業に取り組んでいたが、90年代に入って次世代ゲーム機(後にセガサターンと命名された)の検討が始まった。そのエンジンに何を使うかについて中山隼雄社長とのコンタクトが始まったのは92年1月から。即ちSHマイコンの製品発表前からのお付き合いである。SHマイコンの開発状況については中山社長に逐一伝えていたので、その概要についてはよく理解していただいていた。そして、製品発表の一月前(即ち、同年10月頃)には、「おおむねSH系で行くつもりだ」ということが告げられた。その後、入交昭一郎副社長(93年6月にホンダからセガの副社長へ就任、98年に社長)、佐藤秀樹取締役(2001年に社長)と密に接触を保ちながらゲーム機のメイン・エンジンとしてのSH-2マイコンの開発が進められたのである。
 余談ではあるが、ある懇親の宴席で「SHマイコンのSHの由来は何か?」と質問があった。「本来は“SuperHマイコン”のSとHであるが、心は“商売繁盛マイコン”のSとHでもある。しかし、これからは“セガ・日立”のSとHにしたい」ということで、大いに盛り上がったことがあった。
 SH-2をエンジンとしたセガサターンは94年11月に発売され、初日に17万台を売り切って大ヒット商品となった。SH-2マイコンの納入はこれに先立つ数ヶ月前から行われたので、94年度の日立の半導体事業にとっては大きな売上増につながった。
 その年が明けて、米国の調査機関から「94年度のRISC型マイコンの出荷数」のランキングが発表された。その前年までリストに載っていなかったSHマイコンが、何と2位に食い込んでいるではないか! 
 トップはインテルのi960であったが、SHマイコンはパワーPCなどを抜いて堂々の2位にランクされていたのである。このポジションまでに押し上げるのに、セガサターンが大きな貢献をしてくれたことはいうまでもなく、SHマイコンは市場導入の直後から、まことによい機会に恵まれたのである。
 このようなことを背景にして、SHマイコンの破竹の勢いを後押ししてくれたセガ社の方々に感謝の意を表すために、95年の年明けに「SHマイコン御礼の会」がホテルの大広間で行われた。中山社長始め幹部の皆様にご出席いただき、SHマイコンの採用決定からセガサターンの発表にいたるまでのいろいろなエピソードが語り合われたのであった。


図7 セガ社に対する「SHマイコン御礼の会」
写真右から3人目が中山社長。左へ佐藤取締役、牧本。
社長の右へ松岡巌氏、野宮紘靖氏。

 セガサターンの発表後間も無く、95年の4月には中山社長と次期ゲーム機のマイコンについての相談が始まった。当初は「SH-3とNvidiaの画像チップ」という構想であったが、最終的には「SH-4マイコンとNECの画像チップ、ヤマハの音源チップ」でまとまった。98年5月に新機種「ドリームキャスト」が発表され、実際に発売されたのは同年11月20日であった。このとき私はすでに第一線を退いており、その様子を遠くから眺める形になっていたのである。

ソニー
 ソニー創業者の井深大氏は早くから、半導体の持つ強烈な力を民生機器に応用することに注力し、1955年発売のトランジスタ・ラジオに続いて、テレビ、VTR、ウオ―クマンなど数多くの半導体応用製品を世界に先駆けて市場に送り出した。当初、そのための半導体は自社で製造するという「垂直統合方式」で進めたのであるが、あまりにも機器の売れ行きが大きく伸びたため、他社からも購入することになり、日立の各種の半導体も次第に数多く採用してもらっていたのである。
 マイコンの時代になって、日立製品の採用をソニーの社内で積極的に推奨してくれたのは森尾稔副社長である。同氏とは以前からの知己があり、日立のH8マイコン、F-ZTAT マイコン、SHマイコンなどについて、同社の技術陣に対し詳しくプレゼンする機会を作ってもらった。
 同氏はパスポートサイズの8ミリカメラの開発などで大きな実績があり、社内では「技術の総大将」といった趣があった。その意見は「鶴の一声」のごとく、大きな影響力を持っていたのである。
 95年の時点でSHマイコンのD-inはすでに20件を越えており、森尾氏はSHマイコンのライセンス導入を希望した。社内の意見を取りまとめて、ライセンス契約が締結されたのは97年3月である。これが契機となって、98年6月には、森尾氏の肝いりでソニーのキーメンバーに対するSHマイコンの特別セミナーを開催、41名の方が出席した。その後、ソニーでは新機種へのマイコンは次第にSHに絞られていくようになる。私が後年ソニーに移籍したのはこのような事情が背景にあり、森尾氏が強く押してくれたとのことを後で耳にした。
 SHマイコンなどを通じてソニーとの関係が深まるにつれて、両社の幹部同士のゴルフ・コンペが定期的に催されるようになった。森尾氏はゴルフの腕前も大変に高く、他の幹部もレベルが揃って上手である。また、ゴルフの後の会食のときには、談論風発、実に愉快なひと時を共にすることが多かったのである。図8は97年5月のコンペのときの写真である。


図8 ソニーと日立のゴルフ・コンペ(97年5月)
   前列左から3人目の赤いシャツが森尾氏、右へ牧本、渡辺氏、高篠氏、木原氏。

 森尾氏の上司に当たる出井社長、大賀会長ともその前後から縁ができた。出井社長との縁は97年にキヤノンが主催したPGAツアー、ハワイアン・オープンの時である。出井社長も招待されており、親しく歓談の機会があった。2000年のソニー移籍に際しては出井氏から直接、最初の声をかけてもらったのである。
 さらに大賀会長とは96年の日米半導体協定終結の交渉でともに仕事をする機会に恵まれた。同氏が日本電子機械工業会(EIAJ)の会長を務めておられ、私がデバイス委員長を務めていたのが縁である。この協定をどのように終結させるかについて、米国のSIAとの激しい交渉をともに進めたのである。後日、私が日立からソニーに移籍してご挨拶に伺ったとき(2000年10月)、同氏の部屋に入るや否や「おお、わが戦友!」と呼んで歓迎してくれたのであった。これほど簡潔で、すばらしい歓迎の辞を聞いたのははじめてのことである。

デルコ
 同社は1909年に電子機器の製造販売の会社としてオハイオ州デイトンにて設立された。当初はNCRの子会社であったが、1920年にゼネラル・モーターズ(GM)の子会社となって電装品を中心とした製造会社となる。1970年代にはインディアナ州ココモを拠点として3万人の社員を擁する電装品の主要なサプライヤになっていた。
 同社への最初の訪問は、1978年4月13日である。その訪問が忘れられないのは、私にとって最初の海外顧客向けプレゼンテイションだったからだ。おそらく、私の知る限り、このような正式プレゼンは日立の半導体部門にとっては初めてのことだったのではないかと思う。
 この年の2月に武蔵工場第3設計部が新設となり、私が初代の部長に任命された。これまで第1設計部が担当していたメモリとマイコンを分離して、第3設計部として独立させたのである。それから間も無く、シカゴ駐在所(日立半導体の米国拠点)の伊東秀昭氏から連絡がはいり、デルコ向けにマイコンを中心にした半導体事業についてプレゼンテイションを行って欲しいとのことである。
 デルコが関心を示している内容として、半導体事業全体、マイコン製品、プロセス技術、パッケージング、マスク書き換えのTAT、6800の特性・信頼性データ、など大小さまざまのテーマがあり、全部で14項目が上げられていた。
 私はマイコン事業の発展のためには、またとない機会の到来と受け止め、万全を期して取り組む決意をした。一人で全てをカバーすることはできないので、しっかりした人選を行って、先方のあらゆる質問に即答できるチームを作らなければならない。「持ち帰って、後で回答します」の方式はデルコでは通じないだろうと考えたのだ。
当時、技術的な知見が深く、しかも英語でプレゼンができる人材はそれほど多くは育ってはいない。私の部内だけでは対応できないので、他の部門にも支援をお願いして、次のメンバーに同行をお願いした。

鈴木茂氏:検査部長、品質保証関係全般を担当
伊藤達氏:プロセス技術開発部技師、プロセス技術・パシベーション技術を担当
中島伊尉氏:第3設計部技師、マイコン製品担当
堀江昇氏:第2設計部技師、バイポーラIC担当
 鈴木茂氏が部長職にあったほかは、全て若手の技師を中心にしたチーム構成であった。

 4月11日、全員揃ってシカゴに飛び、伊東秀昭氏のアレンジで、デルコへのプレゼンテイションの下打合せを行った。翌日は午前中に各人がプレゼン資料を仕上げることにし、午後は本番同様のリハーサルを行うことにした。当時のやり方はOHP(オーバーヘッド・プロジェクション)が一般的である。初めは技師クラス3人のみで行う予定であったが、鈴木部長も自らリハーサルに参加することを希望し、本番さながらのリハーサルが行われたのであった。そして、先方に配布する資料は左上のコーナーをホッチキスで綴じて、準備は全て完了した。
 ところが当日の朝にハプニングが起こる。先方に渡してはいけない(秘)資料が含まれていることが判明したのだ。時間は切迫しており、ホッチキスをはずして、綴じなおす余裕はすでにない。後ろめたい気持ちもあったが、その1枚のみを破いて除くことにした。その時に、破いた反対側に小さな三角形の紙片が残るという当然のことに気が廻らなかった。
 先方では購買部門トップのDr. Costelloを中心にして、購買担当者、デバイス技術者、QC担当技術者など10名強が揃って歓迎してくれた。
 まず、コステロ氏からデルコの状況について、概略次のような説明があった。エンジン制御を中心にマイコンなど半導体の需要が急増しており、年間で3千万から3千5百万個のICが必要となる。現在、モトローラがメイン・サプライアであるが、マイコンについてはどうしてもセカンド・ソースが必要であり、海外にもソースを求めたいと思っている。
 さて、次は当方の番である。ホッチキスで綴じられた資料が出席者全員に配られた。そして、先頭バッターとして私がスピーチを始めようとしたときである。朝方に除いたページの、耳の部分の三角形の紙片がひらりと卓上に落ちた。それをコステロ氏が目ざとく見つけたのだ。
 特定のページを除いたことが見抜かれたに違いない。「武士の情けで見逃してくれればいいが・・・」と思ったのも束の間、単刀直入の質問だ。

“Dr. Makimoto, what is this?”

 ここで、妙な言い訳をしてこじらせてはいけない。とっさに、これをかわすことを考えた。

“Thank you for asking. This page is specially reserved for the next meeting.”
“Oh, I see. I am looking forward to the next meeting.”
“Yes, please.”


 このやり取りで全てが納まった。そして、その後は極めて友好的な雰囲気で会議が順調に進んでいったのである。
 日立側のプレゼンターは全員が見事にそのミッションを果たしてくれた。質問に対しても明快な回答を与え、パーフェクトともいえる出来栄えで終わった。この日のために、全員が周到な準備をして万全を期したのである。
ランチの時、コステロ氏が招待してくれたのは同氏が所属するカントリー・クラブのレストランである。ワインも振舞われての歓待であり、話も大いに弾んだ。このようにして、初めての顧客プレゼンは成功裏に終了したのだ。セールス・レップのゴットリーブ氏も、その成功を大いに喜んで次のような解説をしてくれた:
 「コステロ氏が自ら所属するカントリー・クラブのレストランに招待してくれたのは、大きな満足の表現ですよ」。
 この訪問を契機としてデルコとの関係は急接近することなり、サンプル評価から受注へと速いテンポで進み、翌年(79年)には量産品納入が始まったのである。
 量産納入から2年が経過した81年5月、コステロ氏がレップのゴットリーブ氏とともに武蔵工場に来訪、次のようなメッセージを伝えた。日立との共同作業は大変順調に進み、半導体ベンダー5社の中に入ったが、シェアの面では未だモトローラに及ばない。がんばれば20%程度のシェアは可能な筈。そのためには、進んで新技術の提案をしてもらいたい。自動車分野はECUのみならず、電子化がさらに広がるので大きなチャンスである。
 当方ではこのメッセージに力を得て、デバイス・プロセス・パッケージ関連の新技術を紹介し、特に高速CMOSマイコン(63系マイコン)について売り込んだ。
 翌年2月、GMの購買担当副社長のCzaper(ゼイパー)氏が武蔵工場に来訪。このとき、日立のシェアはモトローラと肩を並べるくらいになっていたが、先方では日立のCMOSマイコンに多大の興味を示し、GMにおいても将来方向はCMOSだと見解の一致をみたのである。そして、それは単なるリップサービスでなく、間も無く現実のものとなる。
 その年の12月に大きな成果が舞い込んできた。キャディラックとビュイックのECUとしてCMOSマイコン6301VのD-inが決まったのだ。初年度は66万個の計画であるが、さらに他の機種にも広がる可能性がある。この時点において、CMOSマイコンを量産できるのは日立だけであったので、GMにおけるファースト・ベンダーの地位を初めて確立したのであった。最初のプレゼンから4年が経過していたが、生販一体での努力が実って咲かせた大輪の花であった。デルコ/GM向けのマイコンは日立の半導体事業にとっても売上の大きなベースになったのである。

ノキア
 同社の歴史は1865年に設立された製紙会社までさかのぼるが、幾多の変遷を経て今日に到っている。90年代に入るとそれまでの多角化経営に行き詰まり、大規模のリストラを進めるなかで、携帯電話とその関連分野にリソースを集中することにした。この戦略が実って今日では携帯電話メーカーとして世界トップの座をキープしている。
 日立にとっても最重要顧客の一つであり、私は94年、95年、96年と毎年のように幹部とのミーティングに出席した。先方ではア・ラ・ピエチラ社長が毎回出席され、友好的で中身の濃いミーティングとなったのである。95年当時、同社は年間1500万台の携帯電話を生産していたのであるが、殆んどの機種にH8マイコンがD-inされていた。当方としてはSHマイコンのD-inを進めるべく、特にDSP機能搭載のSH-DSPについてプロモーションを行った。95年の会談において「実務レベルで詰めましょう」というところまで進んだ。そして、96年の会談においては「SH-DSPのデモが先月成功した」との報告があり、大いに意を強くしたのであるが、残念ながらこのD-inは成就しなかった。図9は95年訪問のときのピエチラ社長との写真である。


図9 ノキアのア・ラ・ピエチラ社長(95年3月)

ヤマハ
 電子楽器の老舗のヤマハとも長いお付き合いである。特にH8マイコン、SHマイコンが導入されてからは活発にD-inが進められ、マイコンの大口ユーザーとなっていただいた。96年5月には日立から納入したマイコンが累計2000万個に達し、上島社長主催のパーティーが催され、ご招待をいただいた。さらに97年4月には後継の石村社長から、SHマイコンについてのセカンド・ソース契約の相談をいただくまでになったが、その後の市況悪化の影響でこの話は成就しなかったのである。

リコー
 同社とのお付き合いも電卓の時代にさかのぼる。72年に発売されたプリンタつきの電卓は同社の戦略機種として「てんてんP」の愛称で大々的なプロモーションが行われた。ここで使われたカスタムLSIの開発では、当時最強といわれていたAMIと競り合って日立が受注したものであった。開発日程があまりにもタイトなため、AMIが躊躇したとのことであった。また、開発がうまく行けばジョニ黒の景品をつけましょうというおまけがついていた。ジョニ黒とは「ジョニーウオーカー黒」であり、当時は高級ウイスキーの代名詞でもあった。社内では誰言うともなく「ジョニ黒プロジェクト」と呼ばれていたのだ。全工程が特急進行となり、納期どおりにLSIが仕上がって大いに面目を施すことになったのである。しかし、それよりも「AMIに勝った!」ということが日立のLSI技術者にとっては大きな自信につながったのであった。
 このときのリコーの担当が馬場氏であったが、20年後にはファックス、コピー機、プリンタなどの開発を担当する取締役に昇進していた。このような縁も手伝って、リコーにおいては、H8などのマイコンのほかにASICやメモリなど多くの半導体製品をご愛顧いただいたのである。
 その後、同社とは懇親会などを通じて幹部同士の交流も多く、親密な関係が築かれた。図10は97年12月、忘年会を兼ねた幹部交流会のときの写真である。


図10 リコーとの幹部懇親会(97年12月)
左から5人目がリコーの紙本副社長、その右が牧本


 以上は日立のマイコンの重要顧客12社について、当時の記憶を辿りながら、エピソードを記述したものである。マイコンの事業を通じて国内、海外を問わず、実に多くの方々とお付き合いをさせていただいた。数々の紆余曲折を経るたびに、お客様からいろいろなことを教えてもらった。日立のマイコン事業を大きな柱に育てていただいたのは日立製品を愛用していただいたお客様を措いて他にはない。このようなお客様との付き合いが自分の人生を豊かなものにしてくれたことに対して深甚の謝意を表する次第である。
 しかし当然のことながら、ここで触れさせていただいたのはごく一部のお客様に過ぎない。マイコンという製品の性格上、顧客の数はおそらく数千社に及ぶであろう。ここで触れることができなかったお客様の数の方が圧倒的に多い。「わが社のことに一言も触れていない」という感想をお持ちになられる向きがあるかも知れないが、この点についてはぜひともご容赦をいただきたく、お願い申し上げる次第である。(2011年10月30日作成)

「マイコン事業の回想」はこれで終了です。
ご愛読ありがとうございました。

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