第3章 マイコン誕生


蝉の輪会 会長
牧本 次生


 半導体技術発展の歴史において、1971年のマイコンの開発は、47年のトランジスタの発明および58年のICの発明と比肩できるほどの大きな出来事であり、3大イベントの一つということができる。マイコンの開発過程でユニークなことは、それがベル研究所やIBMのような立派な研究組織を持つところでなされたのではなく、設立されたばかりのベンチャー企業、インテルでなされたことである。しかも、マイコンの誕生には電卓が深くかかわっており、端的には「マイコンは電卓から生まれた」ということができよう。
 インテル社が4ビットのマイクロプロセッサ4004を市場導入したのは71年11月であるが、その開発の経緯は大変にドラマチックである。ここでインテル社の設立からマイコン開発に到る経緯について述べることにしよう。

 トランジスタの発明者の一人ウイリアム・ショックレーは自らの手で運営する半導体会社の設立を目指していたが、計測器の会社を経営するアーノルド・ベックマンの支援を受けることに成功し、56年2月にはスタンフォード大学に近いパロアルトに「ショックレー半導体研究所」を設立した。全米の名だたる半導体技術者を自らスカウトして、25名のメンバーでの船出となる。その中に後日インテル社の創設者となるロバート・ノイスとゴードン・ムーアも含まれていた。
 ショックレーは極めて優秀な頭脳の持ち主であった反面、人間関係においては常軌を逸したような面があり、社員からの信望は失われていった。このような状況の中で57年8月、ノイスを中心とする8人はまとまってショックレーの下を去った。「8人の裏切り者」というレッテルを張られたのであるが、その後シリコン・バレーの中心となって半導体産業の隆盛に貢献することになる。ノイス、28歳のときであった。
 彼らは航空機用カメラ会社のオーナーであった大富豪のシャーマン・フェアチャイルドの支援を得て57年10月「フェアチャイルド半導体会社」を設立した。
 当時、半導体はミサイルや宇宙衛星など軍関連の需要が旺盛であり、フェアチャイルド半導体の業績は急速に伸張していった。61年には世界で初めてICを市場導入して、トップの地位を築いた。しかし、68年になると業績は悪化、創業以来の赤字転落となり、ニューヨークにある本社主導でトップ人事の更迭が行なわれた。この人事に反発して、ノイスは退社を決意、ゴードン・ムーアにそれを打ち明ける。ムーアもノイスの決意に同調して退社、さらに部下のアンディー・グローブも行動を共にすることになる。ノイス40歳、ムーア39歳、グローブは32歳のときであった。
 この3人が中心になって、68年7月に新会社が発足した。10人ほどのメンバーであったが、これが今日最大の半導体メーカーとして君臨するインテル社のスタートであった。
 同社が最初に取り組んだ製品は半導体メモリである。当時のコンピュータに使われていたのは磁気コアメモリであったが、スピードが遅く、小型化に難があった。インテル社はコアメモリを半導体で置き換えることを目指した。最初の製品は64ビット・バイポーラメモリであったが、その後の半導体業界に非常に大きなインパクトを与えた製品は70年10月に発売された1KビットDRAM、「1103」である。売価は10$であり、コアメモリとも十分競合できるものであった。SRAMやEPROMを含めたメモリ事業は大成功を収め、インテル社発展の原動力となった。
 さて、マイコン開発の経緯であるが、同社が設立されて間もない69年に日本の電卓メーカー、日本計算機販売(通称ビジコン)から電卓用LSIの注文を受けたのがきっかけである。ビジコンでは異なる仕様の電卓を品揃えするために、13種類ものカスタムLSIの開発を要求したのであるが、会社設立後間もないインテル社では技術者の頭数も不足しており、これだけの種類のLSI 開発を並列に進めることは難しかった。
 そこで、このプロジェクトを担当したテッド・ホフは違う角度からこの仕事に取り組んだ。つまり全部のチップをカスタム品として別々に開発するのではなく、記憶をつかさどるメモリと演算をつかさどるプロセッサをうまく組み合わせ、メモリのプログラム内容を変える(即ち、ROMを書き換える)ことで異なる仕様に対応すれば、少数のチップの開発でまかなうことができることを着想した。即ち、ストアード・プログラム方式のコンピュータの発想である。ビジコンから派遣された嶋利正とともにこのアイデアに基づいて製品化したのが4004(写真1)であった。


写真1 インテル社が世界で始めて製品化した
マイクロプロセッサ 4004(1971年)
http://www.dentaku-museum.com/hc/computer/intel4004/intel4004.html

 このLSIの開発費(10万ドル)はビジコンが負担したため、同社がその独占販売権を持っていたが、皮肉なことに、その後電卓市場は激しい乱戦模様となる。ビジコンの経営は極めて苦しいものとなり、その販売権をすべてインテル社に売り渡すことになったのだ。その対価としてインテル社はチップ売上げの5%をビジコンに支払う契約とした。
 4004の販売権を得たインテル社はこの製品を電卓だけでなく、いろいろな応用分野に拡販した。即ち、標準品としてのプロセッサ(MPU)とメモリを使い、ROMを書き換えるだけでシステム構築を行うという画期的な方法を提案したのである。当時の主流であった「カスタム品設計方式」から「標準品設計方式」への大転換である。1971年に雑誌Electronics誌に掲載された広告(写真2)は、まさに新しい時代の到来を告げるメッセージであった。


写真2 1971年11月号のElectronics誌に掲載された4ビットマイコンの広告。新しい時代の到来を告げるメッセージが躍る。
http://www.dentaku-museum.com/hc/computer/intel4004/intel4004.html

 マイコンの導入は半導体産業のみならず、エレクトロニクス全体に革命的な変化をもたらすきっかけとなった。「カスタム品ベースの設計手法」から「標準品ベースの設計手法」への転換であり、そのインパクトは大きな広がりを見せて行った。
日立では70年代の初め、電卓用のカスタムLSIで圧倒的な強みを持っており、半導体部門の業績を支える大黒柱になっていたのであるが、マイコンの登場によってボディーブローのような形の影響が及んできたのである。

 さて、時は下って1997年。マイコンという偉大な製品の開発者に対して京都賞が贈られることになった。京都賞は京セラ創業者の稲盛和夫が84年に創設した国際賞(賞金5千万円)であり、科学、技術、文化の各面において著しい貢献をした人々に贈られるものである。受賞者に選ばれたのはフェデリコ・ファジン、エドワード(テッド)・ホフ、スタンレー・メイザー、嶋正利の四氏であり、いずれも4004の開発に携わった人たちであった。この受賞者の顔ぶれからも、「マイコンは電卓から生まれた」ということが裏書されていると言えよう。
これまでに見てきたようにマイコンの開発にはいくつかの偶然的な要因が含まれている。「歴史にIfはない」とは言われるが、次のような点についての「If」は興味深いものがある:

★ ビジコンからのLSI開発依頼がインテルでなく、別の会社に行っていたらどうなったであろうか? おそらく、多数の技術者で並列的にカスタムLSIの開発が進められたのではないか?

○ しかし、ビジコンがインテルを選んだのにはそれなりの理由があった筈であり、また、インテルには優れたコンピュータ・アーキテクト(テッド・ホフ)がいて、独特の発想のもとで開発が進められ、マイコンの製品化につながった。

★ 電卓の市況が乱戦にならず、ビジコンの経営が順調に進んでいたらどうなったであろうか? おそらく、マイコンの販売権がインテルに渡ることはなかったのではないか?

○ 世界最初のマイコン4004については販売権がインテルに渡らなかったかもしれないが、インテルが独自のマイコンを開発することは時間の問題であったであろう。きっかけを与えたのはビジコンからの開発依頼であったとしても、マイコンの発想はインテル社のテッド・ホフが生み出したからである。

 さて、前章で述べたように、日立において電卓用LSI開発の「特研」が進められたのは1969年であり、奇しくもインテルとビジコンの共同開発が始まった年と同じである。また、異なる仕様の機種に対応するのに、個別のカスタムLSIをあてるのではなく、ROMの書き換えで対応するという点でも同じコンセプトを共有していた。即ち、完全なASCP(Application Specific Custom Product)というよりも、ASSP( Application Specific Standard Product) を目指した製品であった。
 事実、日立の電卓用LSI、HD3200シリーズは「世界初のROM方式LSI」と銘打って、新聞発表されたのであり、そのフレキシビリティーが最大のうたい文句であったのだ。タラレバではあるが、日立においてももう少しのところでマイコン開発の一番乗りができるところであった。即ちROMを採用した点ではコンセプトの隔たりは紙一重といえるものであった。しかし、残念ながらその隔たりは日立の総知を以ってしても超えられないものであったのだ。
 日立の場合、ASSPとして電卓の分野をカバーしていたのに対し、インテルにおいては小なりといえどもコンピュータのアーキテクチャによって汎用市場をカバーすることができたのである。

 70年代初頭は世界中の半導体メーカーが電卓用LSIの開発を巡って熾烈な競争を繰り広げていた時期であり、まさに「マイコンの胎動期」であった。そこで一歩先んじたのがインテルであったのだ。
インテルでは71年の4004の製品化に続いて、72年には8ビットの8008、さらに74年にはNMOSをベースとした8ビットの8080を発売した。8080の時代になるとモトローラ社の6800との間に激しい競争が起こり、世界の半導体メーカーはどちらの陣営につくかの決断を迫られることになる。日立ではモトローラ社の6800を選択したのだが、その経緯については後述する。

 さて、インテルは現在半導体業界のトップにあるが、そのポジションを確立するに到った特筆すべき要因として次の二つのことがあげられる。まず、1979年に開発された8ビットMPUの8088が2年後の81年に、IBM PCに採用されたことである。これが今日「WINTEL」と呼ばれるPC標準の始まりであり、巨大マーケットを生み出したのである。
もう一つの大きな要因は、同社が85年のメモリ大不況に際してDRAM事業から撤退したことである。この決定のあと、同社では全てのリソースをマイコン事業に集中して、今日の大をなすに到ったのである。2011年7月12日

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