第11章 F-ZTATマイコンとMCR


蝉の輪会 会長
牧本 次生


日立発のブレイクスルー
 F-ZTATマイコンは第7章で詳述したZTAT(Zero Turn Around Time)マイコンの後継機である。ROM部に搭載したのは、OTPメモリに変わってフラッシュ・メモリであり、書き換えの自由度が格段に高くなったことから、「フレキシブルのF」を先頭につけたものである。また、先頭の「F」はフラッシュメモリの「F」、フィールド・プログラムの「F」にも通じている。

 日立のマイコン事業を振り返るとき、世界の流れを先導し、業界に大きな影響を与えたブレイクスルーの技術あるいはコンセプトが三つある。その中の一つが、F-ZTATマイコンである。本題から少々はずれる事になるが、マイコンの分野における「日立発ブレイクスルー」のトップ3について触れておきたい。

1)デバイス技術としてCMOS化を先導したこと。70年代における8ビットMCUのデバイス技術はインテル、モトローラともにNMOSであり、「NMOSこそ半導体デバイスの主流」というのが通念であった。この通念を打破してCMOSマイコンの優位性を明確に示したのが81年に市場導入した6301であった。これを契機にして世の中の流れがCMOSに変わって行ったのであるが、この件については第6章で詳述した。

2)新型RISCアーキテクチャをベースにした高性能・ローパワー・マイコンの開発と新市場の開拓。92年に導入したSHマイコンがデジカメやカーナビ、ゲームなど「デジタル・コンシューマ製品」と称される新分野を切り開く先導役を果たしたこと。さらにノマディック時代におけるメイン・エンジンとして、ライフ・スタイルの変化にも大きな影響を与えた。この件については第10章で紹介した。

3)マイコンのROM部のフィールド・プログラム化を先導したこと。従来、量産用マイコンにはマスクROMが使われていたが、85年に導入したZTATマイコンでOTPROMを採用し、世界に先駆けて量産化に成功した。これは第7章で述べたところであるが、この次に製品化されたフィールド・プログラマブル・マイコンがF-ZTATマイコンであり、これが今回の主題である。

フラッシュ・メモリ搭載マイコンの開発
 フラッシュ・メモリに関する最初の学会論文は1984年のIEDMにおいて、当時東芝の舛岡富士雄氏が発表した。それまで不揮発性メモリの代表であったEPROMは消去するのに紫外線を用いなければならなかったが、フラッシュメモリでは電気的に一括消去することが可能となり、はるかに利便性が高まったのである。当初はメモリ単体としての製品化が先行し、90年ころになるとメガビット・クラスのメモリも出来るようになった。そのような状況で日立でもフラッシュメモリをマイコンに搭載する検討が進められた。
 1990年は日立のマイコン事業が大きく飛躍するターニング・ポイントとなった年である。この年にモトローラ社との特許関連の係争が全て集約し、「戦後復興」に向けてのマイコン開発計画が始動したのだ。その一つは前述のSHマイコンであり、もう一つがフラッシュ・マイコン(F-ZTAT)である。
 第7章で述べたように先の世代のZTATは主として63系マイコン(68系マイコンのCMOS版)に適用されたのであるが、モ社との関係が行き詰まる中で、心ならずも「ワインド・ダウン」を強いられることとなり、大きな花を咲かせるには到らなかった。そのような意味で、F-ZTATの製品化はZTATのリベンジでもあったのだ。

 マイコン(MCU)は図1に示すように、演算部(CPU)、メモリ部(RAMとROM)および周辺回路などから構成されている。ユーザー・プログラムが内蔵されているのはROM部であるが、その内容を如何に容易に、早く書き換えることができるかが製品の魅力となる。図はマスクROMからOTPROM(ZTAT)へ、そしてフラッシュメモリ(F-ZTAT)へと到るROM部の変遷の様子を示したものである。

 ZTATの場合、ユーザーがプログラムできるのは1回のみであるが、F-ZTATでは何回でも書き換えが可能である。したがって製品を出荷した後でもプログラムを変えられるので、ユーザーにとってははるかにメリットの高いものとなった。

F-ZTATマイコンの市場導入
 日立でのフラッシュ内蔵マイコンの開発はマイコン設計部(木原利昌部長)が中心になって進められたが、トップ・バッターの製品はH8/538Fであり、その市場導入は1993年7月である。製品についての技術的な詳細は日立評論の1994年7月号に「フラッシメモリ内臓F-ZTATマイクロコンピュータ」と題する論文によって報告されている。
H8/538Fの開発のキーメンバーは上記論文の著者として名を連ねている向井浩文、松原清、上村美幸、伊藤高志の各氏と石川栄一氏などである。また、ZTATの開発メンバーであった石橋謙一、土屋文雄、佐藤恒夫、品川裕の各氏も順次F-ZTAT版の開発に軸足をシフトして行った。

 最初のF-ZTATマイコンは産業・OA分野をターゲットにした16ビットマイコンであり、60KBのフラッシュメモリを内蔵していた。図2にチップ写真を示している。


図2  F-ZTAT(フラッシュメモリ搭載)マイコン第1弾:H8/538F
   (0.8μm CMOSプロセス、RAM2KB、ROM60KB、16MHz)

 フラッシュマイコンの量産化においては次の3点が大きな技術課題であった。
@ コスト競争力を高めるためのメモリ・セル構造の工夫と高い歩留まり技術
A 読み出し・書き込みの回数(書き換え回数)
B データリテンション(書き込んだデータが消えないようにすること)
 このような技術課題を克服するために、マイコン設計部を中心にしてメモリ設計部(フラッシュ・メモリ部隊)、プロセス技術部門、製造技術部門、検査部門などの技術者が一丸となって取り組み、世界に先駆けての量産化を達成したのであった。

 一方、強力に市場開拓を推進する手段の一つとして、正式な「商標登録」を行うことにし、広報部隊が中心になってその作業を進めた。OTP版の商標がZTAT(Zero Turn Around Time)だったので、これをベースにしてF-ZTATとしたのである。何回でも書き換え可能で、出荷後にも書き換え可能であったので「フレキシブル」のFを先頭につけたものである。93年中に出願がなされ、当局との協議も大きな問題はなく、96年には正式な登録が完了した。
 F-ZTATマイコンはこれまでにカバーすることの出来なかったさまざまな新市場の開拓に成功した。たとえば、
★ テストマーケット用の少量生産製品
★ 業界の標準化が完全には決まらない段階での製品(通信や家電品など)
★ 市場に出荷された後でプログラム変更が起こりうる分野(自動車のエンジン制御など)
★ ROM変更が頻繁に起こりうる製品(家電品など)
★ 定期的なキャリブレーションが必要な分野(計測器など)
★ 仕向け先別の製品の差異化(地域別あるいは顧客別など)

 カバーする市場分野が広がるにつれて、各種の製品開発の要求が飛び込んでくる。日立ではそのようなニーズに応えるため、製品系列を大幅に拡充することに取り組んだ。
 8ビットマイコン系列(H8/300、300L)や16ビットマイコン系列(H8/300H、500)に加えて32ビットのSHマイコンなどへも展開してラインアップの充実を図った。98年時点では33品種におよび、カバーする市場分野も産業・OA機器のみならず、民生機器、情報機器、自動車分野などにも広がっていった。
 図3は日立における生産量の推移であるが、95年に10万個だったものが96年には400万個、97年には一桁上の4000万個近くまで急増、2000年には1億個のレベルに達した。驚異的な速さで市場に受け入れられたのである。最大の要因は製品の特長が市場ニーズにマッチしていたことであるが、加えて拡販プロモーションの大作戦“MGO”(マイコン・グランド・オペレーション)が大きな役割を果たした。この点については後述する。


図3 フラッシュマイコンの出荷量推移(日立)

フィールド・プログラマブル時代の到来
 私にとってF-ZTATマイコンの製品化は格別の意味合いを持っていた。それは「牧本ウエーブ」の予測の線上にあったからである。
 ここで「牧本ウエーブ」について簡単に触れておきたい。図4に示すように、半導体産業のトレンドが「標準化指向の時代」と「カスタム化指向の時代」との間を10年ごとに入れ替るという現象を指している。この着想を得たのは1987年に高崎工場に転勤となった年であった。その4年後の1991年にElectronics Weekly紙(英国)のデビッド・マナーズ氏によって「牧本ウエーブ」と名づけられて公表となったのである。


図4 90年代後半から「プログラマブルの時代」が始まることを
予測した 牧本ウエーブ
(製造段階では標準品だが応用段階ではカスタム化を実現)


 このウエーブにおいて予測されたことは、87年から97年の10年間は「ASICが主導するカスタム化の時代」であるが、97年から07年に到るサイクルは「フィールド・プログラマビリティーが主導する標準化の時代」としたのである。
 従って、私の胸の中では「F-ZTATはプログラマブル・デバイスの実例として、絶対に成功させねばならない」といった気持ちと同時に、ウエーブの予測をベースにして「F-ZTATは必ず成功するはずだ」といった信念のようなものが混在していた。

 90年代後半に向けてF-ZTATマイコンが実際に急速な立ち上がりとなったことは、前述の「牧本ウエーブ」の予測と完全に符合しており、予測が正鵠を得ていたことの一つの検証事例ともなった。ちょうど同じころにFPGA(フィールド・プログラマブルGA)も立ち上がり期を迎えており、まさに「プログラマブル時代の到来」を告げる形になったのである。
 このような状況の中で、90年代後半から2000年代の前半にかけて「牧本ウエーブ」についての関心が高まり、各種の業界会合や学会から講演の招待をいただく機会が多くなった。また、この傾向は半導体分野のみにとどまらず、コンピュータ分野における「コンフィギュラブル・コンピューティング」のトレンドとも相通じるものがあった。そのような事情によって、中国政府の主催するコンピュータ学会(Computer Innovation 6016 @ Beijing)、米国におけるスーパーコンピュータ学会(SC2006 @Tampa),欧州におけるスーパーコンピュータ学会(ISC2007 @Dresden)など主要学会からも、予期せざる講演の招待をいただいたのであった。また、通信分野では「リコンフィギュラブル無線」の会合(WTP2008@横須賀)において講演の招待をいただいた。
 いかなる産業分野においても「どうすれば顧客満足が得られるか?」が事業の基本であり、その手段としての「標準か? カスタムか?」の選択は永遠の課題であると思われる。

マイコン・カーラリー
 さて、F-ZTATマイコンの持つフレキシビリティーのおかげで、これまではできなかったことができるようになる。学校教育の分野においても新しい可能性が開けたのである。
私はかねがね高校や大学の半導体の教材として、F-ZTATマイコンが適しているのではないかと考えていた。米国などに比べてわが国の半導体教育ははるかに遅れていたが、半導体を教えるためには、高いコストが必要であり、これまでよい解決法がなかったのである。
そのようなことを思いめぐらせていたころ、北海道の工業高校の先生方から思わぬ提案が寄せられた。「F-ZTATマイコンを使って、マイコン・カーラリー(MCR)をやりたい」との提案である。
 このイベントは日立・北海道支社のマイコン技術者、寺下晴一氏が考案して工業高校側に提案したのがきっかけである。その提案を受けて琴似工業高校の石村光政教諭、札幌国際情報高校の笹川政久教諭などが中心になって、その実現に向けて熱心な活動が始まったのだ。両教諭の情熱と献身的な努力がMCRの実現につながったのである。
この提案を応用部門トップの御法川和夫氏から聞いた時の私の気持ちは「これは素晴らしい!」という一語に尽きる。少なからぬコスト(数千万円レベル)がかかることではあるが、全面的に支援することを約束した。F-ZTAT版のH8マイコンをカーラリーの参加者に無償で提供することにし、指導員を含めたスタッフについても日立側でサポートすることにしたのである。
 第1回のカーラリーは1996年1月13日、厳寒の札幌において開催された。図5はこのときの開会式での挨拶の写真である。このイベントは大きな成功をおさめ、回を重ねるごとに参加校が増えた。第3回大会からは全国大会の位置づけとなり、北は北海道から南は沖縄に至る工業高校生が参加するイベントに発展した。
 因みに、96年の第1回に参加したマイコンカー(高校生の部)は99台であった。その数は年とともに増え続け、97年には159台、98年には202台、99年には352台、2000年には974台となる。そして2001年にはついに大台を超えて1413台に達した。


図5 第1回MCRの開会式での挨拶(96年1月、札幌)
『将来的には冬の甲子園を目指してがんばれ!』と激励した。

 第5回大会(2000年)において、私は図らずもMCRへの貢献者の一人として表彰をいただいた。表彰状には「マイコンカーラリー大会の設立並びにその充実発展に尽くされた功績を称え表彰します」となっている。図6はその時にいただいたメダルであるが、思い出の記念品として大事に保管している。


図6 MCR第5回大会において表彰されたときにいただいたメダル

 時は過ぎて2007年、MCRの12周年を記念して笹川政久先生編纂の本が出版された。タイトルは「なまらすごい! ジャパンマイコンカーラリーの12年」である。この本にはMCRの始まりから当時に至る発展の経過がいろいろな執筆者によって書かれており、多くの感動の物語が集められている。一読をお奨めしたい書きものである。

 私は「あとがき」の執筆を担当したのだが、その中から主要部分を適宜抜粋して、私の思いを伝えることにしたい。
『まず、マイコン・カーラリー(MCR)について簡単に紹介しておきたい。
 MCRのルールは極めて単純である。即ち「決められたコースを脱輪することなく最短時間で走る」ことである。ここで、脱輪をさけようとすれば、スピードは遅くなり(ローリスク・ローリターンの場合)、逆にスピード上げようとすれば、脱輪の確率も高くなる(ハイリスク・ハイリターンの場合)。このような選択を迫られることは人生のいろいろな局面において遭遇することであり、人間が生きていく限り避けられないことである。リスクを最小限に抑えて高い目標に挑戦するということは人生の縮図でもある。この点にこそマイコンカーラリーの魅力があり、技術面での奥深さがある。このような活動こそまさに「生きた教育」であるといえよう。
 このイベントが成功した技術的要因の一つは、マイコンの技術革新を極めてタイムリーに取り入れたことである。日立が93年に市場導入したF-ZTATマイコンは、95年にはすでに量産が始まっていた。その最大の特徴は「いつでも、どこでもプログラム修正が可能」という点にある。大会の本番においてもコースに出る直前までプログラムの修正を行なう光景を見かけるが、それを可能にしているのはF-ZTAT技術である。
 世界の先頭を切って製品化された技術が、MCRを通じて高校生の教育現場で役に立っていることは極めて意義深いものがある。まさに産学連携の原点がここにあるといえよう。生徒諸君が「先端技術は面白い」ということを、身をもって感じてもらえることは企業人にとっても大きな喜びである』

Someday, all micros will be made this way: ZTAT
 日立が先導したF-ZTATマイコンはフィールド・プログラマブル・マイコンの代名詞となって大躍進を遂げ、今ではマイコンの主流として位置付けられている。
 思えば最初のフィールド・プログラマブル・マイコンとしてZTATマイコンを市場導入したのは80年代の半ばであった。その将来性について、当時使っていたシナリオを今でも忘れることはできない。セイコーの水晶時計向けコマーシャルをもじって、ZTATマイコンに置き換えたものである。

 “Someday, all micros will be made this way: ZTAT”

 途中でZTATからF-ZTATに変わったものの、フィールド・プログラマブル・マイコンが主流の位置を占めるまでに約20年の歳月を要した。そしてついに”Someday”がやってきたのだと思うと感慨深いものがある。 以上     (2011年9月19日)

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